林の中の住人

松下好孝
(一)

日曜日の遅い朝食をすませた章夫は食卓のうえに広げた新聞を読みながら、両の手で抱くように持っている萩湯呑みのぬくもりを、それとなく掌になじませていた。明けがた、夏布団からでていたむき出しの腕の冷えるのに目覚めたほど、林の中の秋は足早だった。早朝からにぎやかに鳴いている蝉の中にひぐらしがいて、涼気をさそう。  勝手口から郵便受けの朝刊を取りにでたときも、玄関の燈下のたたきに白斑点の髪切り虫が仰向いて、黒だかりの蟻に運ばれていた。蟻のせいだけでなく、髪切りの触覚はまだ動いていた。

章夫は『出生率日本史上最低』の記事に読み入っていた。女性の一人が生涯に出産する日本人の平均子供数は一.五七人だという。初婚年齢が男二八.五歳、女二五.八で史上最高とある。章夫の場合は平均値をやや上回っていたが、妻の弘美は平均年齢より早かったことになる。章夫は新聞の記事に、つい自分たちのばあいと比べていた。

「さあ、掃除をしようかな」

歌うように言って台所を立っていった弘美の声のひびきが、まだ章夫の耳朶に残っている。それはほんの数分前のことだったかもしれないし、十分ぐらい経過していたのかもしれない。

突然の弘美の悲鳴が、次に章夫の助けを求めた。

「あなた、章夫さん、来て!」

台所から玄関に急ぎ「どうした」と章夫は二階に声をかけた。

「来てぇー」

弘美の尋常でない声に、章夫は階段を一段抜かしにかけ上がった。弘美は布団の裾を指さして、蒼くなって立っている。

「へびよ、へびが布団の中にいるんよ」ふるえて半べそをかいている。

なんだそんなことかと一度は思い、しかし何で蛇が布団の中にいるのかと気味悪く不安になった。いつごろから布団の中に忍び込んでいたのかと思うと、章夫は急激に鳥肌のたつ気持ちに襲われ、思わず身震いしていた。章夫も蛇は好きでない。あの濡れたようなぬめる姿を見ただけで、悪寒を感じる。たとえ見世物の檻の中でも、長く見る気はしない。

乱れた布団に蛇の姿はなかった。

「そこんところ、もぐってるの」

寝床をかたづけようと掛け布団を払ったとき、乱れたシーツの上にいる蛇を弘美は見た。悲鳴と共に放り出した掛布団の下に、蛇は逃げ込んだらしい。

「バネ火ばしをとってくる」章夫は階段を大股にかけ降り、勝手口に急いだ。

炊事の火はプロパンガスだから今どき火鋏などいらぬはずだが、林の中の家は意外に姿かたちの怪しげなのがいて、思わぬところで火鋏が役にたつ。爬虫類ではやもりととかげに驚かされる。一度など雨戸を開けていて、やもりが腕に落ちてきたことがある。このとき章夫は思わず声を上げた。百足、げじげじ、毛虫など、場所を選ばず出現する。ことに百足が多く、十センチから十五センチくらいのが家の中を徘徊する。章夫は閉口させられるが、弘美は百足に強い。火鋏でひょいとはさみ、ガスを点けて火炙りの刑に処す。もがきながらチリチリと身を縮めていく百足に、弘美はどこか快意をもって見ているふしがある。乾物を焼く臭いがたちこめ、ものがものだけに章夫にはむかつく臭いだ。林の中だから、好きでない昆虫や爬虫類とつきあうのもいたしかたないが、まさか蛇が布団のなかに忍びこんでいるとは思いもよらなかった。

火鋏を片手にして、章夫はそっと布団をめくっていく。と、居た!四、五十センチの黒褐色のが布団から畳の上に、そして箪笥の後ろへ逃げようとする。だが、箪笥と壁の隙間は蛇の頭ほども空いていない。蛇は隙間に沿って立ち上がるように総身を伸ばし、倒れるようにして向きを変えた。

「わぁー」思わず声を出して章夫はひるんだ。

相手の素早い動きに、章夫はおっかなびっくりに挟もうとするから、うまくいくはずがない。ベランダへのサッシ戸を開けていて、そちらに追いやるようにする。なまじっかはさんで火鋏に絡まれるのがかなわない。章夫と弘美は騒ぞうしく声をかけあいながら、蛇をやっとの思いでベランダに追い落とす。蛇はベランダの手摺りの間から抜けて、階下のコンクリートの犬走りに音を立てて落ちた。章夫が手摺りから身をのり出して見下ろすと、蛇は鈍った動きで塀ぎわの排水溝に逃げていった。

ほっとした章夫と弘美は、しかしちょっとの間、顔を見合わせたまま言葉がなかった。いつ頃から忍びこんでいたのかと、二人は同じことを考えている。

「まさかと思うけど…」章夫は気味悪い思いに、顔をしかめた。

「夕べからいたのかしら」章夫の思うところを、弘美ははにかむように言い、
「見られたかな」とおどけた言いかたをして、ちょっと舌を出した。

まだ少女のように、弘美は照れると時どき舌を出す癖がある。可愛いしぐさのひとつと、章夫は微笑しながらたしなめることがある。だがいま、追われながらちろちろと出していたあの蛇の舌を連想して、
「やめろよ、その癖」と思わず声を荒げていた。

「おはよう。どうしたの、なにを騒いでいるの」

林の中はこの辺り二軒家だけで、隣の大家の奥さんがベランダに洗濯物を干しにでてきて声をかけた。

「おはようございます」章夫が応え、
「いえ、大したことやないんやけど……」と弘美はすぐに引きとって、今の騒ぎをベランダ越しに話しはじめた。

章夫たちの住居は隣家の乙部豊三の所有物で、山の温泉町にほど近い林の中に建っている。なんでも東京に住んでいる豊三の息子家族を呼び戻すつもりで一年前に新築したが、豊三の思いどおりには帰って来ないらしい。空き家のままにしておくのも勿体ないと人に貸したが、その店子はどういうわけか二ヶ月足らずで出ていって、章夫たちが二度目の入居者という。どんな人が借りていたのか知らないが、林の中の生き物たちとうまく馴染めなかったのだろうと、章夫はその人たちの気持ちが判らないでもない。章夫も小さな生きものたちに辟易しているが、支店長の手前もあって逃げ出すわけにはいかない。そして、林の中の二人だけの生活にはそれにも勝る良さはあった。

大家の奥さんの峰子が弘美に語ったところによると、息子家族は後妻の自分に気兼ねしているところがある。それに、こじんまり営んでいるベーカリーの店を簡単にやめられないのも本当らしい。それについては乙部豊三は街中の、かつて事業をしていていま人に貸している家があり、そこの一部をベーカリーの店舗にすればいいとまで息子に譲歩している。しかし最大の原因は、豊三と息子との長い年月の確執があって、ものや金では容易に解決しないこだわりがあると峰子は言う。豊三はだからいつも苦虫を噛みつぶしたような顔をしており、おおむね不機嫌でいる。

どんないきさつが親子のあいだにあるのか知らないが、章夫は豊三をとっつきにくい人だと思っている。

豊三は、おおむね不機嫌の感情をよく峰子にぶっつけているが、大柄な峰子は磊落で、豊三のそれをおおように受けて少しも気にしている様子はない。教養の差というものがこの夫婦のあいだにあるならば、豊三のそれに対し、峰子は──ええ、どうせわたしはあんたのように利口やないから──と言うことになり、暖簾に腕押しでそれはそれなりに釣り合っているようである。

豊三は峰子のことを「ばあさん」と呼んでいるが、教養の差を年齢の差で埋め合わせているように、峰子は遙かに若わかしい。気持ちの上にもそれがあり、峰子は何かというと弘美に声をかけ一緒に行動する。どちらかの家に茶菓子があればあるほうの台所で長時間おしゃべりをし、買い物も一緒でときに二人して乙部家にある内湯に入り、背中を流しあっている。おおむね不機嫌の大家も、今度の店子には満足しているふうがある。

弘美が、舅姑のいない新婚生活のやりなおしみたいな今の生活を楽しんでいることで、章夫もまた満足している。ひょんなことから、温泉のある乙部家を借りることになった二人の目的が、或いは適えられそうな気がするからだ。

初めて乙部家を案内された章夫は、林の中に孤立して建つ二軒家が遙かに人里離れた感じで、樹木が織りなす緑陰の穴に引き込まれるようなうそ寒いものを感じた。そして、奇異な感じを与えるものが乙部家の玄関にかかっていた。『老人よろず相談所』と書かれた五、六十センチの手作りの木製看板で、後で判るのだが乙部豊三の直筆によるものだった。豊三にはひょいと跳び上がるように肩を揺する歩き癖があって、遠くからでも林の中を歩いているその後ろ姿を判じることができる。林の道は薄暗く木漏れ日の射す豊三の背中に従っていると、章夫は別の世界に連れ込まれるような臆した気持ちになった。

乙部豊三の借家を借りるようになったいきさつは、まさに瓢箪から駒であった。  章夫に信用金庫勤務がこの温泉町支店に転ってまもなくのある昼下がり、客の少ない時間帯だった。支店長席の横の応接室、といっても間仕切り一枚の簡単なものだが、支店長と乙部豊三が雑談をしていた。

豊三が街中に所有する貸家の家賃振り込みを通帳に記帳するためで、その待ち時間支店長が豊三に声をかけ、招きあげての雑談だった。広くない行内に支店長の笑い声が響いて、それとなく話の内容が判ってしまう。貸し付けの係りで、手形切り替え事務をしていた章夫がこのとき支店長に呼ばれた。

「木島君、乙部さんが息子さんのために建てた家が、最近空き家になって身元の確かな借り手を探しておられる。君たち新婚に戻ったつもりで借りてみらんかね」 と、支店長に言われたのが瓢箪から駒で、本当になってしまった。

支店長は章夫たちの仲人だった。章夫と弘美は職場結婚で、まる二年になる。当時は街中の支店勤務だったが、たまたま、支店長について回るかたちで今この温泉町支店で一緒になっている。もっとも章夫は転勤して間もないが、支店長はよく目をかけてくれる。そして未だに、弘美にその気配のないのを気にしていてくれた。

「通勤は車で三十分足らずですから……」

「親元を離れて二人きりの生活もいいよ。温泉につかって奥さん孝行すれば、赤ちゃんできるかもしれんよ」

親御さんにはわたしから話してもよいがと、支店長は押してくる。同僚たちが忍び笑いをしているようで、章夫は紅潮した。早く話を終えたかった。だから、
「相談してみます」と、断りの気持ちで答えていた。

団欒の夕食どき、断りの気持ちで答えた例の話題を章夫が持ちだすと章夫の両親の方が乗り気になった。弘美はいまの生活で充分と、一応は章夫の唐突な話題を押しとめた。外れではあるが同じ市内だから、謂うところのスープの冷めぬ距離だと言えなくもない。とにかく孫の顔を早く見たい。二人きりの生活をやってみろと両親にせきたてられて、今の生活に入ったのだった。

環境の変化に章夫たちの夫婦生活は奔放だったが、いまもって両親の期待に応えられなかった。