あの騒ぎから数日が経っていた。午後の締めも終わり、事務処理も終わるころだった。外回りから帰ってきた秋月が道で大きな蛇を見たと言ったことから、章夫はためらいながらも秋月に蛇騒動の話をした。あの1件以来、なにか気持ちに釈然としないものがある。それが何なのかはっきりしないが、誰かに話を聞いてもらえばわだかまりが取れるかもしれないと思った。支店長は外出していた。
「……それで、奥さん噛まれんやったかい。まさか、毒へびじゃなかったんやろうな」
秋月ははじめ、信じがたいといったふうに驚いた。同情的な口ぶりだったがこんな風変わりな話題を一人で聞きおく手はないとばかり、ほかの同僚にも聞こえるように声高に受け応えをしはじめた。話の意味がわかると、女性行員は黄色い声をだして気味悪がった。
「奥さん、よく呑みこまれんやったなハッハハ……」
「冗談きついわ、まるで大蛇(うわばみ)みたいなこと言って」
「なんだか艶めかしいはなしやな」
「おれもそう思う。きっと雄にちがいないわ、そのエッチなへび」
「へびに見初められて……ひょっとして……」と男性の同僚はおもしろがった。
話せば一笑にふされるだろうと思わぬでもなかった。そしてすぐにもこんな冗談が返ってくるように、生命力、繁殖力ということで蛇にまつわる連想は誰もが共通しているようだと章夫は思った。それに、ものの本によると蛇はアダムとイブの時代からの悪役。なんでも人類が猿だったころの遺伝的恐怖があるらしい。
「民話や伝説にへびが美男の公達に化身して、人間の娘の家に通ったのがあるよな。えーっと、むかしむかしあるところに、鳶に襲われたのか傷ついて動けなくなっているへびを通りすがりの娘が不憫に思い、手当てして池に逃がしてやりました……」
秋月が訥とつとここまで語ると、遮るしぐさをして独身の葉山が、そのあとの話はまかせとけと受けた。
「……若者が娘のところに通ってくるたびに高価な金品を差し入れし、娘の親からも歓迎されました。……やがて娘は若者の子を孕みます。そんなとき、見るなするなの約束を破って、娘は若者の正体を知ってしまいました。えーっと、それから……若者が娘の前から姿を消すとき、たいそう立派な刀を一振り残しました」
「ひょっとしてその刀、ヤマタノオロチの腹から出たもんじゃないの」秋月がわざと知ったふうに口をはさんだ。葉山はニヤニヤ笑っている。
「まさかねぇ……でも、その民話本当なの」女子行員が興味を示した。
「そーさく、創作」
「うまい、うまい。さすが文学部史学科専攻。で、その続きはどうなるの」
葉山との仲を噂されている女子行員の吉田理恵が話の続きを促した。
実のところ、これに似た伝説がこの温泉町にあった。鎮西八郎源為朝にまつわるもので、この伝説の中で蛇の傷は岩間から沸き出した温泉の流れに浸かって治癒している。1年に1度のこの町の温泉祭りにも、為朝を思わせる凛々しい行縢(むかばき)姿の若者と、蛇の化身の女性の仮装を見ることがある。地元育ちのものならどこかでこの話を聞いているはずだった。葉山はそれに面白おかしく脚色をして楽しんでいた。
「えーっと……娘の両親は娘を別の男と結婚させました。やがて娘は男の子を産みますが、本当はあの若者の子供でした。赤ん坊はなぜか、長いこと胎児のまま母親の胎内にいたことになります」
葉山は調子づいてなおも話を続けた。
「成人したその子は形見の刀を持って都に上ります。都は日照りが続いて疫病が蔓延していました。雨乞い祈願をしている宮中に行き抜刀すると、俄に天に黒雲が現れ雨が降り出しました。雨雲の中にへびらしい姿の見え隠れするのが、その若者には見えたのです。この功績で若者は宮中に取り立てられることになりました。めでたしめでたし」
葉山の即興物語に、みんなは感心しながら笑った。吉田理恵は胸の前で軽く手をたたいて賞賛した。章夫も一緒になって笑っていたが、胸中のこだわりは消えていなかった。それにもましてある思いが、ちょうど気にならない染みがその存在に気づいたばかりに意識するようなそんな思いで昂じていた。
昨日、章夫は昼食どきに会社を抜けだし、家に持ち帰っていた忘れ物の書類を取りに帰った。車で通うほど遠くでなく、健康のためもあって会社との通勤に自転車を使っている。家に通じる林の中はここを先途の蝉しぐれだった。直射の陽は遮られ、噴き出ていた汗も木漏れ日の風に心地よかった。そのとき章夫は若い男の運転する車とすれちがった。この道は、乙部家か章夫たちに用件がある人のほかはほとんど利用しない。林から奥に人一人通れる道はあるが、その道は川に突き当たるかたちで砂防工事に造った堤防道につながり、林を探索するか散歩するかしか利用する人はいない。乙部家を訪ねる人はおおむね年寄りなので、背広にネクタイで若い男性となると章夫もハテ、とすれちがいざまに思った。
章夫は玄関を入り、上がってすぐ右手の応接間兼書斎に忘れ物を取りに入った。書斎から必要な書類を探し、思っていた通りにそれはすぐに見つかった。部屋の中を見回して、応接台の上の灰皿と吸い殻を章夫は見た。部屋にたばこの匂いがこもっていた。章夫はたばこを吸わない。二階か居間か、台所にいるに違いない弘美にそのことで声をかけそびれて、章夫はなぜか音をたてずに玄関を閉めた。
夕食どき、弘美はよく饒舌したが一言も男の話をしなかった。夜、寝床についてから
「今日、だれか訪ねてきたかい」と章夫は弘美に尋ねた。
「え?いや、だれも、どうして……」弘美は章夫の方に向きなおって怪訝な顔をした。
「うん、いや別に……」章夫は寝返って、弘美に背を向けた。
夕食後、乙部家の勝手口から家の中に声をかけながら、章夫と弘美は洗面具を持って入っていく。
「今晩は、風呂を借ります」
「おじゃまします」 奥のほうから峰子の声が迎える。
「どうぞ、湯かげんは良いはずよ」温泉の湧出量が多く、湯元からは熱湯が溢れそのまま排水口に流れこんでいる。必要なだけを湯元の湧出口に樋をかけ、タイル張りの浴槽にためる。ためてすぐは熱くて入れないから水でうめるか、早めに溜めて自然いさめるのを待つ。湯加減がよいとは、早めに溜め湯をしてくれていることだった。
広い湯舟に首まで浸かり、秋が深まるにつれ湯上がりのいつまでも温もりが続く温泉のよさを章夫は思う。後から湯殿の階段を下りてくる弘美の容姿は湯気に煙り、蛍光灯のもとに豊艶なシルエットを見せる。ふくよかな胸元からくびれた腰とすらりとした脚の線を、章夫は目で追う。
職場からのレクレーションで海に行き、弘美の海水着姿を見て心を動かされたのが、弘美との結婚の幾つかある理由のうちの一つでもある。
その弘美の腰のあたりに蛇の絡まる姿をふと見て――蛍光灯の明かりに湯気の流れが陰影をつけ、そう見えたのだろうが――章夫はハッとして我が目を疑い、慌てて両手で湯をすくいぶるっと顔にかけた。馬鹿げたことだと思いながらも、同僚の話が章夫の気持ちを自己暗示のように誘導するところがあった。
いつもなら、章夫は風呂から上がると、大家の奥さんと長話をして遅くなる弘美を残し、そそくさと引き上げる。だが今夜は広縁の藤椅子に腰掛け、それとなく弘美の湯上がりを待った。網戸越しに月の光をうける庭とそこからつながる林を眺め、間断なく続く虫の音を聞くともなく聞いた。いく種かのこおろぎの鳴き声に交じって鈴虫やうまおいが涼しい音色を聞かす。くつわむしは暑苦しい。ジージーと途切れることなく鳴いている虫もいる。手持ち無沙汰に、章夫はテーブルの上の雑誌をむぞうさに手に取り頁を繰った。
唐突に「ばあさん、お茶を持ってきてくれ」と言う声がして居間の障子が開き、豊三が出てきて、章夫と向き合う一方の椅子に腰掛けた。
「あら、章夫さん、もうあがっていたの」 続いて出てきた峰子が章夫に気づき、それで豊三も意表を突かれたように「ああ、やあ」と挨拶らしき声を出した。
明かりの具合でもあったし、章夫がその椅子に腰掛けることなどないことで、乙部夫婦は出し抜けの感じにいくらか驚いたようだった。そして、章夫も挨拶をするきっかけを失したようにとまどった。
「お先に風呂をいただきました」と、章夫はしどろもどろに遅ればせながらの挨拶をした。
「それじゃ、お茶を追加するから、どうぞゆっくりしててね」
峰子は嬉しそうに声を弾ませ、大柄な体の調子をとって台所に急いだ。豊三と章夫は気まずく押し黙ったまま向かいあっていた。
「そういうものに興味があるのかい」 豊三の言葉の意味を初め章夫は判らなかった。問いなそうとする章夫の言葉が出る前に、豊三は章夫の手にある大判の雑誌を顎でしゃくった。沈黙のあいだ、章夫は無意識に雑誌の頁を繰っていたのだ。
「ええ、まあ……」
章夫は慌てて雑誌を閉じ、表紙を見た。コスモという字が読めた。改めて見ると、雑誌の中の写真や絵に星のそれがあった。
「良かったら持って帰って読みなさい。それは月刊誌の特集号だが、バックナンバーもあるし、関連した単行本もたくさんあるから好きなものを読むと良い」
「天文のこと精通されているんですか」豊三が胸襟を開いてくるのを章夫は感じ、豊三の気持ちを察する言葉で持ち上げた。
「学問的なんと言うもんじゃなく、ただそうした関連に興味があるんじゃが……」 豊三は穏やかな口ぶりで、しかし言葉に弾みがある。
「章夫さんお待たせ」峰子はお茶とお菓子を持ってきた。楽しくてしかたないというふうに卓上に置いた。章夫をこうして迎えるのも初めてだが、どういうわけか豊三が穏やかに章夫と話をしている。主人は章夫さんのこと気にいってるんだわ、と峰子は心の中で言って話の中に割って入った。
「主人たら宇宙のことや宗教のことや、とにかく現実離れしたことばかり興味を持ってるんよ。わたしにはチンプンカンプンで話にならんの。お客さんが来てもそんな話を始めるもんやから、寄りつかなくなるんよ」
章夫は空笑いをした。この笑いを豊三はいくらか話の解る相手と感じたかもしれない。章夫は本当はあまり関心がなかった。しかし、解るふりをしなければならない状況を感じていた。
「この本、貸してください」 そのとき、風呂から上がった弘美も寄ってきて話に加わった。
「この林の中から見る星はほんとうにきれいだわ。町では、夜の空を見るのを忘れていたみたい」
この時間、残照も消えてすっかり暗くなっていた。
「明るすぎて見えない。暗くなることで見えてくる。暗闇のなかでこそ見ることができる……」聞き手も揃ったところで豊三の講釈がはじまる。
本当に珍しく、その夜遅くまで、お茶とお菓子で両家の交歓がもたれたのだった。