林の中の住人

(三)

たまたまの鉢合わせがあってから、風呂上がりのいっときを広縁の椅子に腰掛け雑談で時間を過ごすのが、林の中の住人たちにとって思いがけない楽しみになった。どちらからともなくその時間を待つようになっている。豊三はそのためにわざわざ藤椅子を買い増していたほどである。章夫たちがケーキを持参することがあり、峰子がビールを抜くこともあった。話し相手ができたことで、豊三はこのところすこぶる機嫌がよい。

章夫が鉢合わせのとき借りた本を持参したときは、豊三がすでに椅子に腰掛けていた。風呂を先にあがった弘美は居間で峰子と話しこんでいる。

「写真や挿絵がきれいでわかりやすかったです。地球誕生や宇宙の中の地球そして地球四十六億年の流れをたどると、なんだか哲学者になったみたいでした」

章夫は本を借りた礼を言いながら、読後の素直な感想を言った。

「生命の起源も自然科学でここまで解明されると、納得だがしかし夢がなくなる。想像の余地がなくなるよ」豊三は楽しくてしょうがないといったふうに話す。

「それでもなお神秘ですよ。やはり神業ですよ」

「いや、だんだん神の居場所がなくなってくる。影が薄くなってくる。先の妻がクリスチャンだったけど、だいぶ昔の話だけど……言い争ったことがある」

豊三は遠いところを見る目で言った。

章夫は、豊三が亡くなった奥さんのことをこんなふうに話すのに意外な驚きを感じ、思わず居間の二人の方をうかがった。

「あれは、神が人間を創造ったはなしを……、聖書に書かれてある話を信じておったのだろう。わしが人類起源神話を潤色して話したら、えらい剣幕で憤りよった」

「何ですか、起源神話って」

「あのころ、わしがかってに創った話しなのさ。どこかに妻に逆らう気持ちがあってね」

豊三は昔話を語るように話しはじめた。

――神の射した生命体は渺茫とし混沌としたカオスの中空を泳ぐように漂い進んだ。その形状は頭でっかちの蛇のようであり蝌蚪のようでもあった。やがてそれは地球と出会い、大気に突入して受精し地球に着床した。母なる大地がそれをはぐくみ、育てた――

「神に似た人間はこうして地上に生まれたと言うわけじゃよ」

「あれ、ちょっと待ってくださいよ。その話……ひょっとして……でしょう」

章夫は思わず大きな声をだしていた。

「ハッ、ハ、ハ、ハ……難しいことはわからんが、この宇宙の原理はマクロもミクロも同じやと思ったのさ。だから、人間は神の子だよ」豊三は声を出して嗤った。なんだか照れくさそうな笑いでもあった。

「楽しそうね、何かおもしろい話しなの」突然、居間から峰子と弘美がでてきた。二人はいたずらを見つけられた子供のようにばつの悪さを感じて黙ってしまった。

それいらい広縁の団欒は続いている。男たちが寡黙に女同士の饒舌を聞いているときは、おおむね世間話やショッピングの話であり、世界のニュースや政治が話題になっているときは男たちの声が弾む。ときにすだく虫の声に耳を傾け、お茶を飲みながらいつまでも黙ってすわっていることもあった。

「今日、たまたま通りかかって見たんですけど、この近くの森が大規模に伐採され、整地されよるんですよ。温泉つきのリゾートマンションが建つらしいけど、見慣れていた森が消えるのは淋しいですね」

風呂から上がったばかりの章夫はタオルを藤椅子の背にかけながら言った。豊三は椅子にかけて茶をすすっていた。

「ばあさん、章夫さんがあがったぞ」居間で峰子と弘美の声がする。弘美は先に風呂をあがっていた。すぐに冷えたビールとサラミチーズをもって、峰子と弘美も出てきて椅子にかけた。

「なんじゃもんじゃの木が切られよる。自然に対する畏れをしらん」豊三は忌いましそうに言ってビールを一気に空け、コップを机の上に音を立てて置いた。

「なによ、そのなんじゃなんじゃ……もんじゃの木って」峰子が聞かなければ章夫が尋ねるところだった。

「伝説や民話のなかにでてくる樹や。鎮守の森や産土神の森、入会権のある山や森のなかに、どの樹がそれということでなく幻の樹があるんじゃ。その樹を切れば罰が当たり、死んだり病気になったりすると言われておる。みだりに樹木を痛めてはならぬという禁制が伝承されておる。そのなんじゃの樹があちこちで切り倒されよる。罰当たりが……」

章夫の横に腰掛けている弘美が章夫を見た。なんとなく、二人が豊三に叱られている感じがしたのだ。

豊三の話は続いた。

――鎮守の森や氏神の森はそのままこんもりした山の森につながる象徴で、大きく美しい樹木には神霊が降臨すると信じられておったんじゃ。深い森に入りその神聖さに触れることで、人は生気を取り戻しおった。『森』は『守』につながる。守護につながる。或いは母の胎内に戻ることであり、そこに抱かれ、再び生まれ出る安らぎがあった――

「今で言う、森林浴と言うことですかね。たしかにフィトンチッドと言って木が自分で発する香りが、殺菌力をもっているとか」

信用金庫が発行する最近号の小冊子の一口メモで、章夫は読んだばかりである。章夫の言葉に豊三は微笑して大きく頷いた。

豊三の語り口が遠い幼い時代に聞いた昔ばなしの趣があり、章夫は再び聞く姿勢を取った。

――太古、人類は森の中でひっそりと生きておった。やがて森から出て生活をするようになったが、森に対する潜在的な郷愁があるのかもしれん。今はそうした思いで森に入っていくと忽然と森が切り開かれて観光の林道や高速道路、それにゴルフ場が現れる。深く深く続いていなければならないものがぷっつりと断ち切られている。水の道が農薬で汚され、獣道や小さな生き物たちの道が絶たれている――

「へびや虫が反乱を起こしても不思議でないわな」

豊三の話がいきなり蛇の話になった。その飛躍ぶりにみんなが笑った。豊三も、章夫たちの蛇騒動のことは峰子から聞いて知っていたのだ。

その夜、章夫は夢を見た。混沌としたなかに浮いている感じがあった。見えているわけではないが暗い感じがあった。液体の中に浮いているようだが苦しくはなかった。いやむしろ居心地がよい。いつまでもそのまま浮遊していたかった。どこか懐かしく、甘える心地よさがある。ささやくように声が聞こえていた。耳をそばだてると(むかしむかし、あったとさ……)と繰りかえしていた。なぜか、心臓の鼓動のように規則正しく繰りかえしていた。突然、呼吸が苦しくなった。空気を吸いたいと水面に顔を出し、章夫は口をぱくぱくさせた。章夫は酸欠の金魚鉢のなかでもがいていた。他の金魚と一緒にもがいていた。

そこで章夫は目覚めた。夢だと知って大きく息をする。弘美が章夫に寄り添って寝息をたてていた。弘美の腕が、章夫の胸のうえにある。章夫はそっと弘美の腕をはずしながら、あの懐かしい声をたぐっていた。(おばあちゃんの声だ)それは章夫がまだ幼いときに他界した母方の祖母の声だった。祖母はよく章夫におとぎ話や昔話を聞かせてくれた。祖母の布団にもぐってその胸に抱かれて何度も聞いたあの声だった。

秋も深まった日曜日の午後、会社の同僚の葉山と吉田理恵が訪ねてきた。朝から弘美の思いがけない話に驚かされ、浮かぬ思いでいたときに電話があった。章夫は応じていたが、すぐにも弘美のことを考えこんで忘れていた。だから葉山と理恵の訪問が突然のようになって二人は慌てた。

訪問者を玄関脇の応接間に通して、弘美は隣の峰子のもとに急いだ。買い置きの菓子を昼までに食べあげ客に出すものがなにもなかった。隣で何か借りなければならない。 「ごめん、ごめん。ついうっかり忘れていたよ」玄関先で章夫は弘美にも葉山たちにも面食らって詫びていた。

「木島さん、これつまらんものですが…」言いながら、葉山は手みやげのメロン箱を応接台の上に置いた。

三人が雑談をしていると、まもなく弘美がコーヒーとケーキを持って部屋に入ってきた。

「奥さん、お休みのところをほんとにすみません」吉田理恵が殊勝な面もちでいった。

「いいえ、主人がうっかりやなもんで、どうぞゆっくりしてください」弘美は土産の礼を言いメロンを受けると、部屋を出ていった。

「それにしてもここの家の雰囲気にはちょっと驚かされるな。林の中に入りこんでここの二軒だけが忽然と現れて、町の俗界から遊離している。こんなところに人が住んでいると思わせるところがある」葉山は何か思い出そうとして言った。

「おとぎ話の世界みたい」理恵が笑った。

「それそれ、別世界ゾーンだ。むかしおじいさんとおばあさんが住んでいました、と言うムードなんやな」

「おれたち夫婦がおじいさんとおばあさんかい」章夫は冗談きついと笑ったが、葉山は思いつくままに自分の考えを続けた。

「昔は集落から離れて、森や林の中に孤立して住まいがあるのは普通だったかもしれない。その住人にとってなにか常識で計れないことは天変地異や魑魅魍魎のせいになり、或いは神業のこととしておとぎ話になったのかもしれん。森の中の古人は、今の人たちが失ってしまった冴えた感性をもっていたんだろう。鋭く研ぎ澄まされた想像力……文芸能力をもっていただろうと思うよ」

葉山は自分の思いつきにうなずきながら、楽しむように話した。

「ここに住んでいると、現代人が失ったというその文芸能力とやらを回復するかな」

「する。する。語り部になれるよ」途中からメロンを切って持ってきた弘美も話しに加わり、童心にかえったように話が弾んだ。つくつくぼうしが近くで鳴きはめた。あれほど喧噪を極めた蝉の声も気のせいか閑散として弱よわしくなっていた。

葉山と理恵は結婚するという。支店長に仲人を頼みかたがた、ドライブをかねて同僚の家を訪ねていた。章夫には結婚式での挨拶を頼みたいらしい。

「実はもうお腹が大きくなってきてね。黙っているわけにいかなくなったんや」

「そうか、このごろ吉田さんは少し肥えたのかと思ったんや」

言いながら、章夫はちらりと弘美の腹部を見た。今朝の(あるものがないの…… ひょっとしたら)と言った弘美の言葉が現実味をおびる。

「奥さん、女って損なところがあると思わない。子育ては女だけみたいなところがあるでしょう」理恵は弘美に同意を求めた。

「ほんとね。そりゃ子供はほしいけど……夫と二人で同意してつくるのよね。主人にももっと赤ちゃんを育てる共同責任を感じてほしいわ」弘美にいつになく強い口調が感じられた。

「生むのは女よ」吉田理恵が言った。

「それは判るけど、代わって生むなんてできっこないからな」葉山は笑って章夫に同意を求める。

「それはしかたないけど、でも現代の医学は進んでいて臓器移植やら人工授精や代理出産だってあるのよ。だから、夫にホルモン注射してお乳が出るようにしてもらえば、子育ても男の人に判ってもらえると思うわ」吉田理恵は意気込んで言った。

「そりゃないよ」と葉山は言ってから、民話の中に異類婚をあつかった(蛇女房)と言うのがあると話しはじめた。

――蛇が人間の女に化身し、女房を失って悲しんでいる男の女房になる。やがて男の子を産むが、お産のとき蛇の正体を見られ、男のもとを去らねばならなくなる。去るにあたって、赤子が泣くときはこれを嘗めさせてくださいと、左の目玉をくりぬいて置いてゆく。子供はその目玉を嘗めて育つ。玉がなくなると、男は蛇の住む沼に行き、もう一方の目玉をもらってくる。ときを経て、やがて子供は大きくなると、沼に住んでいる盲目の人を連れてかえって親孝行をする――

「玉がもらい乳の代わりだったんやな」話し終えると葉山は言った。

「玉をなめたのは男で、なめるとお乳が出て、赤ちゃんに飲ませたのかも」理恵がこだわっていた。

葉山たちがかえったあと、章夫はすっかり考えこんでしまった。昔話なんて、聞き手しだいでどうにでも脚色できるのかもしれない。広い地域で、似ていて少しずつ違った昔話があるのはその地方に合った脚色がなされているに違いない。密室状態の男たちが相手なら、そしてそのような期待が聞き手にあるなら、話はあくどく卑猥なものに堕ちていくだろう。古く若者組の会合などで語られた話は、そのようなものに違いない。蛇の目玉の解釈だって、女性群は強引に男の母乳ならぬ父乳を脚色して面白がったではないか。

今朝、お茶を飲みながら新聞を読んでいるとき、背後で、弘美が冗談ぽく(あるものがないの、ひょっとして……)と言った。章夫はとっさに蛇騒動の日から逆算していた。すっかり秋も深まって、着ている服は冬構えになっている。あれからひと月はたっているみたいだ。本当に身ごもったのなら喜ぶべきところだが、一瞬、驚きのほうが先だったのは馬鹿げた思いだが章夫は蛇に拘泥っている。同衾という言葉に囚われている。

章夫の心の隅に、蛇が美男子の公達に化身して娘のところに通ったという、たわいない話が小さくとぐろを巻いていた。そしてあのあと一度きりだが、居間にたばこの吸い殻のあったことで、章夫は弘美に対しなにか釈然としない気持ちが澱になっていた。