林の中の住人

(四)

湯冷めをしないように章夫はカーデガンを着て椅子に腰掛けた。温泉は体を芯から温めていつまでも心地よい。だが一枚多く着なければさすがに寒くなった。開け放されて網戸だけだった縁側にも、とっくに硝子戸がたっていた。

乙部豊三は居間で電話中だった。荒げて声だ。テーブルの上に開封された手紙が裏を見せて置いてある。章夫は手紙の裏書人をそれとなく見る。向きが逆さなので、章夫は首を傾けた。よく読みとれないので立ち上がり、それとなく辺りをうかがい反対側にまわる。差出人は乙部英樹と書かれていた。豊三の息子だった。それが判ると、差出人の住所もすぐに東京の文字が読みとれる。豊三の電話の相手はどうやら息子の英樹らしい。豊三の電話の口吻に、いつもの女性たちのにぎやかな声が聞こえてこない。

今夜はこのまま引き上げたほうがいいのかもしれないと、章夫は再び腰掛けていた椅子から腰を浮かせた。そのとき激しく受話器を置く音がして豊三が廊下に出てきた。苦虫を噛みつぶしたような不機嫌な顔のまま、豊三は手を差し出してそこにたっている章夫に椅子をすすめた。章夫は気圧されてそのまま椅子に腰をおろす。

「明日、東京に行ってくる。基樹の病気がひどくなったらどうするんや。いくらパン屋が忙しいからと言っても、だれかが側にいてやらねば――」

「モトキさんって……」章夫は訝るように遠慮がちに尋ねた。豊三はかなり昂ぶっている。

「ああ、失礼。いや東京の孫が入院したらしい。中学何年生になったのか……。そりゃ店が忙しいのは判るが、たかが焼きたてのパンとケーキを売る小さな店じゃないか。……だからいつも言うように、こっちに帰ってくるといいんじゃ。そうさせんといかん」

豊三はテーブルをこんこんと拳でたたいてなにやら一人決めしているようだった。  峰子からそれとなく聞かされていた話を弘美が章夫に話し、だから章夫も乙部豊三と息子の確執をうすうすは知っていた。豊三が飛行機で東京に発ったその日の夜、峰子は義理の息子になる英樹のことを章夫たちに話して聞かせた。

「英樹さんたちは帰らないだろうとわたしは思うよ」と峰子はさりげなく言った。豊三の行動に一言もはさめない立場としてそれは微妙に、峰子の願いかもしれなかった。

乙部豊三の妻泉子は敬虔なクリスチャンだった。豊三も教会に通ってはいたが信仰者と言うほどでなく、戦後の開放感で青年団活動に熱心な、いくらか聖書に興味をもっている若者だった。結婚後、豊三は事業に情熱を傾け、泉子はより熱心な信仰者として布教の道に入っていった。豊三は家を留守にしがちな妻の行動を、快く思わなかった。行動を控えるようにと口論になることもあった。仕事の忙しさもあって豊三はしだいに教会から遠ざかり、信仰から離れていった。夫婦のあいだの信仰の差と、いつまでも子供に恵まれないこともあって、二人のあいだに軋轢が生じていた。同じ教会にいて豊三とそれとなく競うかたちで泉子に思いを寄せていた友人のことを、豊三は疑いはじめていた。彼もまた熱心なクリスチャンで、いつまでも独身を通していた。その後数年して、泉子は身ごもり男の児を生んだ。英樹と名付けた。子供は豊三に似ていなかった。

豊三は子供に愛情を感じなかった。泉子は夫婦の冷めた情をより信仰に注ぐ。二人の間は決定的となり、泉子は子供を連れて東京に移り住んだ。国家公務員だった泉子の親が東京に転勤していたからでもある。ライバルだったその友人も東京で働いているのをその後、豊三は知ることになる。

豊三は養育費は送っていた。一度、豊三が重病のとき、泉子は幼い英樹を連れて長期の看護に来たことがある。長じて英樹は結婚した。その結婚式に声がかかり、豊三は出向いて行って泉子と夫婦を演じている。泉子が不慮の事故で死に、その葬儀に豊三は東京に再び出向いた。初対面の孫の基樹が小学生になっていて、容貌は豊三によく似ており、飛び上がるように肩を揺する歩き癖は紛れもなく祖父のそのものだった。英樹は鬼子だったのだ。心のどこかで、豊三は泉子と友人を疑っているところがあった。

以来、豊三は息子の英樹に帰ってくることを勧めている。後継者がなく、事業に熱意が持てなくなってやめた町中の、今は人に貸している店をパン屋にすればよいと、そして家まで建てて迎えようとしていた。泉子への長い間の猜疑心に内心忸怩たる思いがあり、英樹にはなんとしても報いてやりたいと豊三の思いは執拗だった。失われたものの大きさが悔やまれた。英樹はベーカリーが軌道に乗っており簡単にやめるわけにはいかないと言う。それも本当だった。が、なによりも母をないがしろにした父を許せない気持ちが本当だった。

泉子の死後、豊三は歳は離れているが、長く身の回りの世話をしてもらっていた峰子を籍に入れた。生活に不便はないが、この年になって豊三は無性に肉親の情を感じて心が騒いだ。孫に現れたまぎれもない血のつながりの証に、身の震える思いがした。いいしれぬ畏れを感じていた。一方で、頑なに意地を通す強がりは結婚生活の破綻以来、拠りどころのように変えようとしない。

改めて断りの手紙をよこした英樹の文面に、一帯の店舗の立ち退きのことが書いてある。跡にビルが建ち、テナントとして入るにはかなりの費用がかかるらしい。それとなく匂わせるものがあり、豊三としては息子が父に頼る気配が嬉しい。いちずに拒絶し続けていたこれまでの英樹の立場も、思わぬ事情で変節してきた。都会での地上げによる地下の高騰とビルの建設ラッシュの情報は、周知のことである。地方のこの温泉町にもリゾートがらみのその気配はあったから……。

息子の手紙は豊三にとって好機だった。説得して、この際東京を引き上げこちらに帰らせるべきだ。意地を張っていた英樹の思い入れの信号かもしれない。そう豊三は決め込んで東京に電話をいれた。その話の中で、孫の基樹の病気を知った。行ってどうなるわけでもないが、行かずにおれない焦りを豊三は感じていた。今までに感じたことのない、一種胸を圧迫する感情だった。章夫が前に座っているにもかかわらず、豊三は昂ぶる気持ちに大きなため息をついていた。

乙部豊三が東京に発ったその日の夕方、章夫と弘美は峰子に夕食を誘われた。夕食の支度は弘美も手伝った。風呂上がりの団欒は続いていたが、食事を共にするのははじめてだった。お互いにビールを酌み交わしながら、話は豊三と英樹のことになった。

「心配しなくても、英樹さんたちはくわえらないとおもふわ」

「ぼくたち家を空けんといかんのやないですか」と章夫が言ったことで、峰子は飲みかけていたビールのコップを慌てておきながら咽せて言った。

「あら、わたしたちこの家を出なきゃいけんの」弘美が驚いたように言った。

「転勤だってあるんやから、そりゃいつまでも居るわけにいかないよ」

「いつかわね……」弘美にはまるで念頭になかったことだった。不服そうな口調で言った。

「いやよ、そんな話。急に湿っぽくなるじゃないの」峰子が章夫にビールを注ぎながら言った。

「先のさきよ、そんなこと。まだ一年もたたないじゃない。そのうちあなたたちに赤ちゃんができたら、わたしが見てあげるわよ。かわいいでしょうね」峰子は話題をかえようとして言った。

章夫は思わず弘美を見た。あれから何日か過ぎている。弘美がなにも言わないので、章夫も問わずにいた。しかしもし本当なら、両親にも弘美の実家にも報告をしなければならない。喜ぶべきことなのだが……。

「勧めていた保険も、そうなると赤ちゃんもいれんとね」峰子は当然のように言った。

「何ですか、保険って」と章夫は尋ねた。

「あら、まだ何も話してなかったけ。奥さんの親戚の保険屋さんから勧められているんよ」ゴメンと言うように弘美は舌を出し、癖をとがめられまいと慌てて口を押さえた。

「わたしの親戚の息子がよく勧誘にくるんで、この間から弘美さんにも勧めているの」

「ああ、応接間のどこかにパンフレットを置いたままだわ。そのうち章夫さんに見てもらおうと思って……」

そういうことだったのかと章夫はほっとしながらも、妄想をたくましくしたことに内心赤面していた。

蛇にこだわりすぎていたようだった。ここの環境に、葉山が言うところの文芸能力とかをたくましくさせる何かがあるのかもしれない。一種妖気のようなものが樹木の中にあるのかもしれない。そして、ここの林の中は特にそうした磁場が強いのかもしれない。

家に帰ると弘美は応接室から保険のパンフレットを探しだし、台所でお茶を飲んでいる章夫の前に置いた。

「そんなによく来るのかい」

「三、四度かしら、奥さんとこに寄ってそれから二人してくるの」

世話になっている手前、断るわけにいかないなと思い、生まれてくる子のために入るかと、章夫はパンフレットをめくって眺めた。

乙部家がこれから先どうなるのか。峰子が言うようにそんなに簡単に、東京を引き上げることはないかもしれない。だが豊三がこれから先東京を行き来することで、親子の絆がよりを戻すことは容易に考えられる。ベーカリーの店舗のことで切迫した問題も起きているようだ。どっちにしても、そのうちに家を空けねばならないだろうと章夫は思った。子供が生まれるのなら、ここでの生活も意義があったということになる。

「赤ん坊ができるんなら親としての責任も感じるし、保険にはいってみるか」

章夫は自縛していた思いが晴れてみると、子供が生まれるという思いが体のうちから昂揚してくるのを感じる。二世の誕生は、自分の生を持続させることだ。命を時代に継げるということだ。それがこんなにも昂揚を感じるとは。親が子を思う気持ちがどんなものか、章夫は親の気持ちが少しわかるような気がした。乙部豊三が祖父として孫に託す気持ちも、漠然とだが判る気がする。こんなにも自然な気持ちで解けてくる思いを、章夫はなにか新しい発見をするような新鮮さで感じていた。人間も結局、自然の一部だ。自然にはぐくみ育てられている。このところの新聞記事にある出生率の低下は、どこかで人が自然に背く生き方を強いられているからかもしれない。

「そのうち産婦人科に行ってみらんと。親父たちにも連絡しなきゃならんし」章夫は身籠もった弘美をとてもいとおしく思った。

「……」弘美はなんのこと、という顔をしている。

「月のものが無いって言ったろう」

弘美は思い当たって、「あら、いやだァ」と大きな声で言って、笑いだした。

「遅れてたけど、はじまったの」そう弘美は言って、舌をちょっと出して、慌てて手で口を覆った。

「いやだァー」弘美はもう一度言いながら「ちょっと飲み過ぎたみたい。からだがほてるわ。章夫さん先にあがるわよ」と言って台所を出ていった。

「なんてことだ」章夫は拍子抜けしてつぶやいていた。

(生むのは女よ)吉田理恵が言っていた言葉を、章夫は唐突に思い出していた。

終わり

第二十四回(平成四年度)九州芸術祭文学賞大分地区選考次席