名残川通り奇譚

松下好孝

会社にある温泉の排水がどうも上手く流れない。いままでにも時として、詰まることがある。そんなとき、屋内の中間にあるマンホールと風呂場までの間の排水溝を、割り竹で突いた。

隠居職の社長である武志の父親が、雑用係をかねてこの掃除を買ってでる。八十歳を幾つか過ぎても体だけは若わかしい。風呂好きで、朝夕二度の入浴を欠かさない。だから、この役は自分のものと決めているところがある。マンホールの蓋を開け、土間にシートを敷いて腹這っての作業になる。建物の建ったのが昭和四年だから、やがて築後六十年になる。たまには掃除も必要だ。温泉の湯垢がたまるのはしかたのないことだ。

ところが、こんどは詰まる場所が違っている。中間のマンホールから表通りの暗渠までの、二十メートル余りの間に原因があるらしい。接いだ割り竹は中間のマンホールから暗渠まで、充分に届いているはずの長さを通しながらも、いまひとつ、湯はけが悪い。いちど、市役所の下水道課に連絡して、流川通りのマンホールを開け、調べてもらわねばならないだろうと武志は思っている。

会社の直突きの温泉は四六時中湧出しており、浴槽を満たした温泉はそのまま下水溝に流れる。さらに、温水は屋内の土管を伝って、通りの暗渠になった川に流れこんでいる。そこここの温泉排水を集めて、川は温かい。暗渠の川はそれからさらに数百メートルを流れて、旧桟橋跡の別府湾に流れ込む。

明治、大正の初期まで川はそのままの姿で、川底から自然湧出する温泉も一緒になって、湯けむりをあげていた。そして、名残橋のたもとには地熱で生きの良い柳の巨木が、枝を風になびかせていた。旅館、置屋、料理屋、商店がならび、芸者衆が往来し、弦歌さんざめく風情があった。

武志の祖父はその時代、もっと南の高崎山寄りにある浜脇町に建材店を構えていた。浜脇は別府温泉発祥の地である。

武志の父親が幼年のころ、商品の配達や別府駅舎までの小荷物の受け出しについて行くことがあった。駅は開通してまだ数年しか経っていなかった。荷物の多いときには荷馬車を雇っていたが、小荷物のときは従業員が大八車で運搬した。 揃いの法被(はっぴ)に前掛けを着けた従業員たちの前引き、後押しする大八車の往復に、判取帳を持って乗せてもらうのが楽しみだった。

浜脇町からまず朝見川の二十メートルほどの橋を渡り、やがて大きな柳の木のある名残橋を経由した。この界隈はいつも祭りかと思うほど華やいでいて、武志の父親は通るのが楽しみでもあった。人力車や大八車が渡れる石橋は少なく、上流では板橋や川の中の飛び石を利用した。勢いをつけて橋を渡るとき、荷台に乗った武志の父親は、痛快な思いで馬上武者を気取っていた。

『流川』のいわれは、明治の流行作家、菊地幽芳が紀行文 『別府温泉繁盛記』の中で紹介している。  その冒頭に“また港に注ぐ「流川」は温泉の川で これがまた盛んに湯気を立て 海に流れ込んで居る 試みにその中へ足を突込んで見ると何とも云へぬ湯加減だ”と紹介。そして、名残川の項に次のように書いている。

“別府の別天地には更にまた流川という別天地がある。傾斜(けいしゃ)の地で化粧のものが控えて居る。ここに一条の細い溝のような川がある。例の湯気を立てて海の中へ流れ込む川であるが、昔は遊冶郎(ゆうやろう)がこの川端(べり)で名残(なごり)を惜しんだので名残川と云始め、それが転化して流川となったといふ説がある。”

明治四十二年発行のこの本の末尾には、別府の旅館や商店の広告が数頁にわたって載っている。その中の写真館の広告の住所が『別府温泉場 字名残川通』とあり、そうした呼称のあったことがうかがえる。

その流川が大正六年に埋め立てられ、道路拡幅工事が行われると、港と駅の中ほどにある地の利から、町の中心が浜脇から流川に移るようになった。武志の祖父は機を見て、店舗を浜脇町から流川通りに移した。

店舗の建て方を始めた昭和三年に、地獄巡りの亀の井バスが運行を始めている。日本で初めての女性のバスガイドを地獄巡り遊覧バスに乗せ、遊覧コース沿線の名所や史跡を五七の美文調で説明させている。桟橋前の流川通り一丁目のかど地が始発所になる。若い美人のバスガイドが美声で、一種独特の調子で、流川情緒の案内をした。流川通りは、別府のメインストリートになっていた。

〃ここは名高い流川 情けの熱い湯の町を西につらぬく大通り 旅館商店軒ならび 夜はさながら不夜城でございます〃

ガイドの説明のあとに運転手は合いの手を入れ、クラクションを二度鳴らすのだった。

その二

武志が大学を卒えて別府に帰ってきたのは、昭和三十五年の春だった。都会での就職を祖父からも親戚からも反対され、祖父からの仕送りがその条件でもあって、不承ぶしょうに建材店の仕事に就くことになる。母親は武志が高校生のとき、すでに他界していた。

その年は日米安保条約の改定を巡って、都市や大学は騒然としていた。が、温泉歓楽地別府は時の流れに差があった。前年の皇太子成婚の儀式を偶然、関西の親戚の家のテレビで観ていたが、別府の家ではまだテレビを据えていなかった。やがて、条約の改定が自然承認されると国の宰相が交替し、所得倍増のかけ声で経済成長が始まることになるのだが、地方都市では、テレビの普及にまだ時間がかかった。

民間テレビで三輪から四輪に代わる軽自動車の宣伝に、関西の喜劇人によるコマーシャルが流れていた。流川通りも少しずつ交通量が増えてきて、夕涼みがてら武志が近所の子供たちとキャッチボールをするのに、車の往来を気にしなければならなくなっていた。

その夏、七月十日から二ヶ月間に渡って、流川通りは武志の知る限り最大の改修工事が行われた。その間、交通は完全に遮断されて、アスファルト道路は掘り起こされた。それまでも部分的な補修はあったが、暑くなるとアスファルトは流れて車の轍が残った。その轍の陰影に、武志はカタピラーの凹凸を思い出す。

それは武志が幼稚園のとき、店舗の陳列台に腰掛け、手なずけた野良猫数匹を膝に抱いて遊んでいたときのことである。ふいに、海岸側から数台の戦車が轟音をたてて流川通りをあがってきた。武志はそれまでにも、台車で運ばれる戦車は見たことがある。しかし、無限軌道を回転させ、轟音を響かせ隊をなして進むのを見るのは初めてで、気圧された。武志のそばにいた猫たちはその音に、狂ったように店の中へ逃げこんだ。抱かれていた猫は武志の膝に爪をたてて逃げた。その後、いつものように奥の倉庫で呼んでも、猫たちはついに姿を現すことはなかった。

武志は暑さに溶けぎみのアスファルトが、カタピラーでめくられる様を唖然として見ていた。戦車の勇姿には喝采しながらも、アスファルトの一部が抉られ跳ね飛ばされていくことに、なにか言いようのないわだかまりが残ったのを覚えている。

改修工事の過程で、かつての川の流れと堤の石垣が姿を現し、人びとの目を惹いた。埋め立てられて川幅は狭くなっていたが、南斜面の石垣は往時のままに出現した。

夕涼みに、武志は掘りおこされた足もとを注意しながら、川ぶちを歩いてみた。川の水量は思ったより少なく、浅かった。もっと水量の多い記憶がある。武志がその思いをぼんやりと手繰っていると、石垣の隙間から飛び出したねずみが足を滑らせ音をたてて水に落ち、再び石垣の間に逃げこんだ。

その記憶は大戦の末期のころにさかのぼる。大本営のラジオ放送の華々しい戦果のわりに、追いつめられていく息苦しさを武志は子供心に感じていた。

米軍機による本土空襲が始まった昭和十九年、武志は国民学校一年生だった。警戒警報が発令になると、授業は中断、生徒は常に携帯していた防空頭巾をかぶり校庭に集合、隊列を組んで駆け足で下校した。やがて、広い運動場も食料増産のために薩摩芋畑に代わり、油を取るための向日葵が背高く伸びていた。警報は日増しに激しくなり、授業は途中で打ち切られた。それでも、武志は早く家に帰れるのを結構喜んでいた。

本土空襲が激しくなってきて、流川通りに幾つかの防空壕が掘られた。建材店の前の歩道部分にも防空壕が造られた。それは、学校から早引けして帰る子供たちの格好の遊び場になった。セメント造りの防火用水も通りの所どころに設置されて、常に水をためていた。夏はボウフラの棲かとなり、冬は氷が張った。不意に石を投げ入れ側にいるものにしぶきをかけたり、氷を割ったりして、子供たちは何でも遊びに取り入れた。

昭和二十年三月、隣市の大分が初空襲を受けてから、流川通りの防火訓練も焦眉の急として度たび行われるようになった。流川の水も防火用として使うことになり、警報のサイレンが鳴るとマンホールの蓋が開けられた。学校を早ばやと帰っていた武志も、大人に混じってマンホールを覗き込んだ。その流れの中に、十センチ前後の魚の大群が流れに逆らって泳いでいた。 「イナの大群だ!」覗きこんだ人たちはみんな驚きの声を上げた。 「だれか網を持ってきてすくわんか」顔を見合わせた大人たちは、しかしそうすることが、この場にそぐわないのを知っていた。次に、十数メートルうえのマンホールも開けられた。やはり鯔の群れがさかのぼっていた。

路上からバケツで水をくみ上げるには、水位は低かった。それで板を組んで川に関が作られた。水がせき止められて、鯔が川を上れなくなるのを、武志はとても残念に思ったものだ。

その後も、大分市は何度か空襲をうけた。防空頭巾をかぶり、武志も母親や妹たちと何度か山に避難した。大分中心地に最大の空襲があった夜、爆撃は七月十六日夜半から十七日の未明まで続いた。避難した朝見八幡神社の山の中腹から、別府湾の海の向こうに見た大分市の火の海に、武志の体の震えは止まらなかった。何波にも渡って襲来するB29爆撃機の編隊。B29から落とされる照明弾に照らし出された家いえ。ばらまかれる焼夷弾の炸裂音となめるように広がる火柱に、周囲の大人たちは悲痛な喚声をあげた。美しく、悲しい眺めだった。

幸いに、別府は一度の爆撃もなく終戦を迎えた。武志が二年生の夏のことである。玉音放送を聞いて、日本が戦争に負けた悔しさに涙を流したが、これで死ななくてすむと安堵の思いにほっとしたのも本当だった。戦争に負けるとは瞬時に天地が崩れるほど、何かがあるのかと武志は思っていた。中庭での激しい蝉しぐれのほかに、変わったことは何も起きなかった。その日、サイレンが一度も鳴らないのが、不思議なことに思えた。

武志は言いつけられて、はがきを一丁上のポストまでだしに行った。玉音放送があって、まだそれほど時間は経っていなかった。そのとき突然、警防団長がメガホンで「空襲、退避!」と繰りかえした。咄嗟のことに、武志は家まで走って帰るまもなく、ポストのそばの防空壕に飛びこんだ。戦争は終わったはずなのにと思い、負けたのはやはりデマだったのかと思い、母親と離れたところで死にたくないと武志は思った。

爆音が聞こえ武志は緊張した。友軍機だと言う声がして、やがて警防団長がきまり悪そうにメガホンで解除を告げた。防空壕から出てきた人たちは、顔を見合わせて笑った。緊張の解けた、明るい笑いが広がった。日の丸の銀翼を陽にまぶしく反射させ、流川通りの上空を戦闘機が一機、北から南の方向によぎっていった。

やがて通りの壕は埋めもどされ、マンホールの関ははずされた。この夏の終わりにかけて、夕方の流川通りをなぜか連日、赤とんぼの群が襲い、コウモリが乱舞したのを人びとは因縁めいて眺めた。

流川通りの二ヶ月に及ぶ大改修工事は終わった。交通止めの最後の状況を利用して、九月十日は市をあげての餅まきと盆踊りが、通りで盛大に催された。沿道には市民や浴衣がけの観光客が多く見物してにぎわった。

武志はひょっとこの面で顔をかくし、ほとんど団体ばかりの踊りの列に一人飛び入りし、やや荒っぽい踊り方でおどった。意に反して帰郷したわだかまりが、その踊り方にこめられていた。

その三

建材店から流川通りを山手に数百メートルほど行くと、JR高架線の右手前にホテルが建っている。数階建ての近代建築のビルが、老舗の亀の井ホテルである。名前の示すとおり、かつては亀の井バスと同じ経営だった。そのころのホテルは和風の別荘風で、瓦葺きの白壁が一丁をかね折れに囲って、威容があった。堂どうとした構えの門をくぐると、玉砂利を敷きつめた広い庭に、松の巨木が所どころにその緑陰を落として薄暗かった。

ねずみ捕りかごを下げて、武志は亀の井ホテルに急いだ。かごの中でねずみは時どき暴れて、金網を咬む。(捕虜のくせに…)観念しろと、武志は敵兵を捕まえた兵隊のつもりになっている。

「ただいま」と大声に帰ってきて、かかっているねずみ捕りを見て、武志は幼稚園の鞄を放り出し、園服を着替えぬままに家を飛び出してきた。亀の井ホテルの大きな門の前まできて、武志は中の庭をうかがった。人影のないのを確かめてから、忍び足で庭にはいっていく。玉砂利の足音に驚き、風で騒ぐ松の葉ずれの音に肝を冷やした。

 

ホテルの庭の一隅に、ちょうど、流川通りに面した白壁の裏にあたるところに池があって、その池に鰐が飼われていた。二つに仕切って、大きい鰐と小さい鰐に分けられていた。水中に体を沈めて目と鼻孔だけを水面に出しているもの、陸上でまるで動かぬ岩のように陽をうけているものなど、数は多いのだがその動きは緩慢だった。池には管から温泉が流れ落ちていた。太い配水管の向きは通り側になっていて、流川の暗渠に流れこんでいたようだ。

(居る、いる…)そんな思いで、武志は金網の柵の上からねずみ捕りのかごのふたを開ける。池に落ちたねずみは懸命に泳いで逃げようとする。それまで緩慢だった鰐の動きが、急に激しい動きになってねずみに襲いかかった。その敏捷さに武志は緊張して体をこわばらせた。鰐は長い吻を横ぶりにして、大きく開けた両顎で一瞬、カプリと音をたてた。ねずみは消えた。

背干しをしていた陸上の鰐が、餌の気配にいっせいに池の中に体を滑りこませてくる。餌にありつかなかった鰐の動揺がしばらく続いて、やがて何ごともなかったように動きが止まる。だが、池の水はいつまでもひたひたと波うっていた。(すごいぞ、すごいぞ)武志は心の中で喝采し、柵にしがみついてこの一部始終を見ていた。昂ぶりに、しがみついた掌は汗ばんでいるのだった。

ねずみがかかるたびに、武志はホテルに急いだ。庭に人影があるときは、いつまでも忍んで待った。一度だけ、鰐はねずみを捕り逃がしたことがある。大きい鰐のときだった。鰐の一撃をかわしたねずみは排水口に逃れようとした。二度目に横ぶりに噛みつこうとした鰐の長い吻が、池の縁に突っかかって、ねずみは排水口に逃げこんでしまった。

そんなある日、ねずみ捕りを下げてホテルに行った武志は、跡形もなく池が埋めたてられ、鰐のいなくなっているのを知った。武志は気落ちした。武志の知らないところで、時代はこうした動物を飼育できないところに傾いていたのかもしれない。

その四

街中から車で十分ばかりの、緑の多く残る丘陵地に、武志は十数年前から移り住んでいる。だから小鳥はよく飛来して、耳目を楽しませてくれる。庭の桜桃が色づくころになると鳥の標的にされ、人の口にはいることはまずない。ことに大柄の鳥は枝にとまるや一粒を丸呑みし、さらに一粒をくわえて飛びたつ。その貪欲なところが見ていて面白い。

武志は特に鳥に興味を持っているわけではないが、最近、偶然にある鳥の群を見て驚いた。家の裏は林で、二階の窓から見る林の枝は手が届くほどに伸びている。その林の枝を飛びかう小鳥の群に気づいてはいたが、雀だと思いこみ気にもとめなかった。だが雀にしては太めの体だし、色も違っていた。そしてよく見ると、なんとそれはインコの群だったのだ。

原産地が南方系のインコが、この地で繁殖しているのに驚いた。飼育されていたのがつがいで逃げ出し、子孫を増やし、或いは類が類を呼んで、ここまで増えたものと思える。環境さえ適応できれば、帰化動物はますます増殖していくと、武志はその例を幾つか聞いて知っていた。

川で鰻を捕るのが上手い知人の話によると、別府では温泉が流れこんでいる川のほとんどに、グッピーが繁殖しているらしい。境川、平田川、新川はもとより、流れのゆるい小川にもはびこっていると言う。熱帯淡水産のグッピーは、冬は温水が流入して水温の高い場所で寒さをしのぎ、温かくなると行動範囲をひろげて繁殖し、めだかのように水田にも広がっているらしい。

さらに潜り上手の知人は観光港から北の春木川の河口付近にかけて、熱帯魚のテラピアを銛で突いている。停泊している観光船の下には、よく肥えたテラピアが集まるらしい。さらに北にある亀川漁港でも、テラピアはよく釣れている。通称和泉鯛とも言われ、武志は川魚料理で何度か食べている。水草の類を食べ、小魚を補食する雑食性で、テラピアは水温さえ高ければたやすく繁殖し、塩分にも抵抗力が強いらしい。

別府にはほかにも、アメリカザリガニやアメリカカブトエビなどの、帰化動物の生息している記録がものの本に載っている。

側溝は市の管理だが、その件は県の管理だと、市の下水道課の返事である。そう言われてみれば、流川通りは県道だった。『県道二一六号別府湯布院線』が流川通りの正式名称になると、県土木事務所の返事だった。

通りの暗渠を調べるので立ち会って欲しいと、委託された工事業者から電話による通知があった。一緒に中に入りたいむねを伝えた。武志は暗渠の中をのぞいてみたかった。マンホールは交叉点の中にあり、交通量が多いため夜間の検査になるらしい。その日はアサから雨模様だったが、夕方には本降りになっていた。

工事用の蛍光バリケードでマンホールを囲み、照明と赤ランプを設置し、ユニックで重耐マンホールを開けた。夜間でも車の往来は結構あって、一方通行の横道は通行規制の札を立てた。私ごとの排水点検になにやら大がかりな仕儀になって、武志は恐縮していた。 「ほんとうに一緒にはいるんですか」若い検査員は変わった人だと言わんばかりに言って、それでもカッパや長靴を用意してくれていた。

武志は検査員のあとに従って流川の暗渠におりた。路上からの照明に照らし出され、湯気に曇った狭苦しい暗渠に二人の大きな影がゆれる。温泉のにおいも混じって、下水の一種独特の蒸れるような異臭が鼻を突く。手に持った照明灯も、ふさがれたように光が通らない。下水の水量は思ったより多かった。雨が流れこむせいもあったろう。湯気もそのせいで、いつもよりこもっているのかもしれなかった。長靴にしだいに温もりが伝わってきていた。

「足もとに気をつけてください」

言いながら検査員は先に進む。ヘルメットはかぶっていたが武志は足もとより頭の方が気になり、前かがみになって従った。それでも何度かヘルメットを打ちあて、さらに腰を折った。

会社からの配水管の口径は大きかったが、増水で半分以上が水中に隠れていた。検査員は器具やリールを使って調べ始めた。

「三十年ほど前に流川通りの改修工事があって、そのとき、土管が割れたことがあったらしいよ」

 

今朝、検査のことを知った武志の父親が、思い出して言っていた。そのことを検査員に言いながら、ほんとにもうあれから三十年近くになるのかと、武志は別府に帰ってきたころのことをふと思った。この若い検査員はそのころ生まれていたのだろうか、とも思った。

武志は少しよう息苦しくなっていた。前かがみの不自然な格好に腰が痛み、絶えられないほどになった。まさか水の中にしゃがみこむわけにもいかない。それに温泉の混じった下水のにおいが腐臭のように這ってきて、胸がむかついた。いたたまれなくなって、武志は検査員が腰を上げたのを機に、マンホールの出口に急ごうとした。新鮮な空気を吸いたい衝動にかられた。

そのとき、コンクリート壁の段差の縁を伝って―下水もその際に沿って流れていたが―照明灯の明かりの中にねずみの伝い逃げる姿が映し出された。ねずみの鳴き声に思わずライトを向けたと言った方が正しいのかもしれない。その小さな黒点に水中から長い板状のものがさっと持ち上がり、一瞬のうちにねずみは消えた。カプリと音が聞こえた、と思った。武志の耳朶にその音が残った。(あの音だ!)と武志は思った。幼稚園生のとき、ホテルの池で鰐がねずみをくわえたときの、あの音だった。

(わにだ!)武志は一瞬、血の引く思いにとらわれ、咄嗟に検査員を見た。検査員も瞬時のできごとに気づいたように、こわばった表情でそこを凝視していた。武志は水を蹴立てて、足を持ち上げるような慌て方で、ヘルメットを何度も天井にぶち当てながら出口に急いだ。検査員もあとに従っていた。路上に出て、しかし二人は何も言わなかった。少なくとも、武志は言えなかった。誰も信じてくれない。流川の暗渠に鰐が棲んでいるなどと―。

子鰐は餌としてグッピーを好む。飼育されていた鰐が逃げて、温水の環境に生きのびることだってあるかもしれない。暗渠での出来ごといらい、武志はその思いに囚われていた。

あれは、検査員が流れてきた板切れを踏みつけて持ち上がった偶然だろうか。夜間の暗渠の中で、湯気にくぐもって定かでない視界の中で、ねずみの姿から連想する錯覚だったのだろうか。思いこみによる幻覚を見たのだろうか。はて、このことはどこかで経験したことがあるような気がする、との思いがあのとき確かにあった。『デジャ・ビュ』という心理学上の問題なのか。

その後、武志は百科事典をひもといてみて、熱帯や亜熱帯だけでなく、温帯にも棲むアリゲーターやカイマンのいるのを知った。あの一瞬は既視感による錯覚で、あわてふためいた武志のその慌てぶりの異常さに、検査員もただごとでないと従っただけなのかもしれない。そうは思ってみるものの、武志は鰐を見た思いにやはり拘泥っていた。だがこのことは、誰に口外できるものでもない。自分の思いの中にとどめておこうと、武志は決めた。

それにしても、終戦の夏の生き物たちの動きを人びとは因縁めいて眺めたが、今、帰化動物の一連の動きにも、武志は何か時代の移り変わりの兆しを感じるのだった。

排水管には、湯垢や砂の堆積していることが判った。三十年前の、土管の破損による勾配の狂いかどうかは定かでない。その後、バキューム車による堆積物の除去が行われた。

―完―

  

木通 第3号 1989・1・3(S64)