新千年紀を前に

松下好孝

聖フランシスコ・ザビエルの名前を新聞で見たとき、わたしの気持ちをふとかすめたものがあった。ザビエルは戦国時代大友宗麟に招かれ、豊後の国でキリスト教を布教している。南蛮屏風図に模して大分文化会館の緞帳にも描かれているが、そうした歴史教科書的なものではない。大分にはその名を冠した南蛮菓子もあるが、そんなものでもない。記憶の片隅に隠れていたものが、懐かしさをともなって垣間見えた思いがしたのだった。

ザビエルが日本に初めてキリスト教を伝えて四百五十年になる。それを記念してザビエルの『聖腕』が大分にやって来るという新聞記事を、十月後半ごろ小さな囲み記事で見かけた。紙面を斜め読みしていて「聖腕」の文字に引っ掛かった。一瞬どこかで見たような、聞いたような気がして(はて…)との思いがそのとき過ぎった。いったん記憶を手繰ろうとしたがすぐ他の紙面に関心が移ってそのままになっていた。

その後時どき、数種の新聞に関連のべた組み記事が載った。やがて大分のカトリック教会に到着間際、地元紙は《おかえり「ざびえる」》と大きく記事を組んだ。ザビエル渡来四百五十周年記念事業として《「聖腕」五十年ぶり大分へ》、の見出しにわたしは注目した。「聖腕」は一九四九年(昭和二十四年)、四百周年を記念して大分など各地を回っており、二回目の来日と記事にある。そうだった。聖腕は五十年前に来県していたのだった。半世紀前のそのときにさかのぼって、わたしは記憶を手繰った。

五十年前、それはわたしが小学校六年生の時だった。その四年前の一九四五年(昭和二十年)、国民学校二年生のときに太平洋戦争は終わっていた。

その日、五、六年生は一行の歓迎のため街に連れ出された。それまでも時どき歓迎のために連れ出されている。北小学校前の国道の電車通りに並ぶことが多かった。その日は違って、街中に引率された。並んだのは意外にも流川通りだった。それも通りを隔ててちょうど、わたしの家の店の前になった。流川通りを上ってくる一行を迎えるために左側への整列になった。

クラスメートが声だかに「Yちゃんとこだ」とわたしの家を指さした。それだけでもなんだかきまり悪い思いでいたのに、小学生が沿道に並んだことで、近隣の人びとが何事かと店先に出てきた。わたしの母親も店先に出てきて、わたしを認めて微笑んだ。わたしは照れくさく、クラスメートの手前わざと母親を無視した。

  

通過する「聖腕」に旗を振ったかどうか記憶にない。まさか十字の旗でもあるまい。当時、何かよく分からないままに沿道に並び、進駐軍絡みの歓迎の星条旗を振った。それほどよく旗を振らされたということだが、そのときは旗でなくただ手を振るか、拍手で迎えたのかもしれない。それを迎える前に、生徒は先生からザビエルの「聖腕」について何か説明を受けていたはずである。

一五四九年(天文十八年)八月十五日イエズス会の宣教師ザビエルが中国人のジャンクで鹿児島に上陸し、島津藩主に謁し、日本に初めてキリスト教を伝えたこと(七月二十二日説あり)。インドのゴアに帰り中国へ布教の途中病死したこと。カトリック信仰の奇跡により、腐敗しなかった遺体から切断されたザビエルの右腕のこと。そんな説明があったのかもしれない。ミイラ状態の腕をなぜ拝むのか。戦死者の遺骨のようなものなのか。戦後間もないころで、そのように生徒が想像を巡らせていてもおかしくはない。形があるだけにやはりグロテスクな思いはあった。

ともかく勉強から解放され、引率されて校外に出ることを生徒は喜んだ。はしゃいでいた。ふざけあっていた。「来たぞ」の声に、わたしは慌ててそれを見ようとした。目の前をオープンカーがさっと通り過ぎた。伴走車があったかどうかの記憶は定かでない。車が通り過ぎて、黒い服を着ていた白人が後部座席の背もたれの上に、一段高く腰掛けていたのは見えた。言われてみて、何か箱のようなものを抱えていたような気がした。正確にはほとんど何も目にとまらなかった。本当のところ車はもっとゆっくり通過するものと思っていた。一瞬だった。あっけなかった。それを見たと言う生徒もいたが、ほとんどの生徒が腑に落ちない思いで学校に引きあげたのだった。

戦後間もなくして、わたしは日本N教団別府キリスト教会の日曜学校に通っていた。牧師のO先生夫妻はごく普通の服装で、だから車に乗っていた外人神父の黒衣姿に違和感を覚えた。カトリックとプロテスタントの違いや、神父と牧師の違いなど知るはずもなかった。

その翌年の一九五〇年に、まだ高い建物の少ない別府の街中に、色鮮やかな緑青葺きの尖塔を備えたカトリック教会が建った。エキゾチックな建物だった。イタリア人神父が中心になって国際協力により、フランスの国境沿いにあるルルドの聖堂をモデルにして建てたと聞く。それからは別府の街でも時に黒衣の神父を見かけることもあった。

 

牧師のO先生夫妻には子供が三人いた。姉と妹に挟まれてわたしと同級生の長男Mちゃんがいた。彼は勉強が良くできた。どこか大人っぽく気配りのきく子で、そしてやさしかった。近所に住んでいて、わたしとは仲良しだった。O先生夫妻は縁戚で信者の製パン屋の場所を借りて、布教活動を始めていた。製パン屋は流川通り三丁目の所にあり、その下隣りが集会場形式にした教会だった。

 

わたしはMちゃんに誘われて日曜学校に通うようになっていた。O先生夫妻は人望が厚く、親しまれ慕われていた。日曜学校に行くと言うと、頑固な祖父もいやな顔をせず献金の小銭をくれた。教会でバザーが催されとき、ぜんざいを配るため、わたしの家にたくさんあった食器を祖母は喜んで貸した。わたしの家は真言宗で、祖母は寺によく法話を聴きに行くほど信仰が厚かった。だから信仰に関係無く、O先生夫妻は町の人に受け入れられていた。

わたしが小学校六年生のころ、O先生一家は東京の教会に転勤して行った。それから数十年を経てあるとき、Mちゃんが別府に立ち寄りその折りわたしを訪ねてきた。思いがけなくも懐かしい邂逅だった。以来、年賀状の交換が続いている。Mちゃんは関東地方のクリスチャン系の大学を出たが牧師にはならず、公立大学の教授になりその後、県の新設看護短大で教えている。

その彼からこの年末に喪中欠礼の葉書がきた。本年一月に父が九十五才で天寿を全うし召天致しました、とある。O先生が亡くなったのだ。数年前、Mちゃんが再び来別、友人を交え三人で飲み語ったとき、O先生夫妻はますます元気で活躍しているとのことだった。戦後の別府の時代を懐かしんで、わたしのことも話題になるのだと言っていた。

昨年元旦、O先生夫妻を囲みMちゃん夫婦と三人の娘や息子たちの、家族ぐるみの写真付年賀状をいただいていた。背景に時代がかった帆船が写っている。どこかテーマーパークの会場なのだろうか。杖をついて少し猫背だがしゃんと姿勢を正したO先生。帽子をかぶって優しいほほ笑みの奥さん先生。二人の立ち姿を、わたしは小学生の時別れて以来の記憶を呼び戻しながら懐かしく眺め入った。

そして賀状には父九十四才、母九十一才とあった。だからその後間もなくのご不幸ということになる。伴侶を無くされた奥さん先生はさぞかし落胆されていることだろう。年に不足はないと人は言うかもしれないが、肉親にとっては、やはり幾つになっても元気でいて欲しいものなのだ。

流川通りにあった教会はほどなく、カトリック教会の近くの秋葉通りに転居した。洋裁学校の間借りだった。それから数年の後、野口町に移っても二転三転、次第に街中から遠くなっていった。わたしも次第に日曜学校から足が遠のいていく。それでも奥さん先生の笑顔が見たくて、声をかけてもらいたくて、時どきわたしは思い出したように通っていた。そのころ新築なった野口町の教会に一、二度行ったことがあるような気がする。だが、O先生家族がいなくなってからは、日曜学校とは全く疎遠になった。

戦後間もない混沌とした時代の日曜学校の出来事を、わたしは断片的に思い出す。戦後すぐのクリスマスに、わたしたちは野口原にあった進駐軍のキャンプ・チッカマウガの教会に招待された。そのときポップコーンを黒砂糖でまぶした拳大の菓子をプレゼントされた。食糧不足は深刻だった。とくに甘いものの欠乏はひどく、わたしたちは思いがけないプレゼントに喜んだ。キャンプの教会の入り口に豆電球の点滅する大きな木があった。クリスマスツリーをわたしはこのとき初めて見た。毎年、クリスマスのころになると、プレゼント目当てに日曜学校に出て来る子供たちがいた。わたしたちがそのことをO先生夫妻に告げると、先生は笑って受け入れていた。先生のその寛容さがわたしたちは不満だった。

クリスマス行事に子供たちだけの劇をしたことがある。キリスト誕生に、星に導かれて馬小屋を訪ねて来る東方の三博士の一人をそのときわたしは演じた。ヨセフはMちゃんでマリヤはMちゃんの妹のIちゃんだった。

一九四八年(昭和二十三年)六月二八日、福井地震が起きた。マグニチュード七・一の典型的な直下型地震だった。死者三七六九人、家屋半壊約四万八千戸、焼失約三八五一戸と記録されている。戦後では、阪神淡路地震に次ぐ大きな地震である。当時はテレビもなく新聞やラジオ、それにニュース映画でその惨事を見た。

O先生の指導で、日曜学校の生徒は罹災者の人たちへの募金活動をした。人通りの多い流川通りの街角で、子供たちは大きな声を出して道行く人に呼びかけた。子供たちの慈善事業に、大人たちは快く応じてくれた。立った場所がわたしの家のすぐそばだった。わたしは家に取って返すと、手っ取り早く店先にあった商品を持ち出した。道を挟んで二手に別れて立つほうが、募金もたくさん集まると思ったからだ。急いで持ち出した容器はしかしトタン製の肥えびしゃくだった。入れ物が入れ物だけに、通行人はにやにや笑いながら、それでも快く寄付をしてくれた。向側からO先生は苦笑して見ていた。

四つ年下の妹を初めて日曜学校に連れて行ったときのことだ。大人と一緒にO先生のキリストの話を聞き、先生の終わりの祈りに和して「……父と子と聖霊の御名によりアーメン」とわたしたちは一斉に唱和する。そのとき妹一人だけが「ソーメン」と続けた。一瞬、教会の中は気まずい沈黙があった。妹は発言が自分だけだったので不審に思いそこで黙った。わずかに忍び笑いがあった。わたしは身を堅くし、恐縮した。赤面した。妹はきょとんとしていた。戦争末期になると、キリスト教が敵性の宗教だと言うことで、それとなく誹謗中傷された。クリスチャンは息をひそめる思いでいたに違いない。耐える思いでいたに違いない。

「アーメン、ソーメン、冷やそーめん」とクリスチャンを囃す言葉があった。子供たちは悪意があるわけでなく、よく解らぬままに使っていた。なんとなく聞き覚えていた囃し言葉を「アーメン」とみんなが言ったことで、妹は一つの言葉だと思いこみ続けようとしたのだった。

小学校の幼稚園に入る前にも、わたしはキリスト教系の幼稚園に通っている。終戦間近に世間の人びとが鬼畜米英とヒステリックに唱えるようになる以前は、まだキリスト教に寛容だったのだろう。不老町の今あるM病院の場所にS幼稚園はあった。わたしはそこに二年間通っている。妹も一年間通った。現在は中央公民館の横にその幼稚園はある。

日本が太平洋戦争に敗れたのは八月十五日だった。ザビエルが日本に上陸し、初めてキリスト教を伝えたのも同じ八月十五日だった。迎えの黒船の船長(カピタン)はインド航路を発見したバスコ・ダ・ガマの息子だった。滞日二年三カ月、ザビエルは豊後速見の日出の港からインドのゴアに帰って行った。日曜学校で接したわたしの淡いキリスト教との出会いはO先生家族との触れ合いに始まり、別れによって終わった。

そして、キリスト生誕年の紀元はやがて新千年紀にはいる。

2000・3・31 文礫 25号